【元教師の実録人生】第1話 犬の遠吠え、虎の遠吠え

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高校半年で中退。何をしても続かず職を転々とする。

転々としすぎて正しい職歴が書けないため、履歴書は略歴にならざるを得ない。日雇いのバイトや三日で辞めたものなどがかなりあるからだ。

年金履歴でなんとか記憶を呼び覚ますことはできるものの、年金を支払っていない時期のことはまだらにしか覚えていない。

高校中退後、横浜関内の蕎麦屋に弟子入りした。

父は、「学校に行かないのであれば家を出て行け」という教育方針。そのため高校を退学した後、寮のある職場を探していた。確か高校友達の紹介で入ったと記憶している。

15歳で家を出て、野毛仲通の蕎麦屋の寮に入った。飲屋街がひしめく界隈で、寮の裏はソープランドだった。15歳には刺激的すぎる環境。関内の蕎麦屋までは歩いて15分ほど。出勤時間は夕方5時から夜中の3時までの完全昼夜逆転。給料15万円。

寮のビル1Fが私が働く蕎麦屋の系列店だった。2Fが我々の相部屋で広さは10畳ほど。3Fが蕎麦屋で働いている韓国人女性たちのお部屋。人の出入りが激しかったため常時2、3人で寝泊まりしていた。

寮があったビル(右側)の現在の姿。2Fの灯りが付いているのが部屋。現在は飲み屋となっており、お客さんで賑わっていた。窓が小さい隣ビル(現在はやはり飲み屋)がソープだった。佇まいは35年前そのまま。

確か出勤前日の夕方に案内されて寮に入り、カビ臭さと埃だらけの部屋を掃除した。夜9時くらいから周辺の地理を覚えるため関内の店まで色々な道を通って行ったり来たりしてみた。

夜といってもネオンが明るく夜でも昼間のよう。たくさんの人で賑わっている。その頃はいわゆる”山一戦争”が関西で行われており、血気盛んなその筋の人たちが横浜にもたくさんいた。

初めの数ヶ月はホール(店番)を見ていたが、態度が悪く客を怒らせてしまうこともあり、厨房で釜番となった。蕎麦を茹でたりカツ丼を作ったりで忙しい時間帯の厨房は戦場だったが、店番よりも性に合っていたように思う。

夕方はサラリーマンのお客さんが多く、夜になるにつれ飲み屋上がりのお姉さんやその筋の方々で店は賑わった。出前は歩いて行った。バイクの免許を持っていなかった(15歳では取得できない)からだ。

ニューハーフのお店に行くのは恐怖だった。出前から帰ると私の顔は口紅だらけ。お食事を届けると、お店のお姉さんたちに感謝のチュッチュをされるからだ。他には普通の会社や雀荘、高利貸し、その筋の方々の事務所などにお食事を届けた。

そば屋のオーナーは若く、よくソープなどにつれて行ってくれた。幸いなことに半年通った高校で初めては済ませていたため、ソープが初めてではない。今思えば30代と思しき女性が多く、それぞれ上質な技やモノという武器を持っていた。ヌード劇場にもよく行った。

記憶では8ヶ月くらいで実家に逃げた。15歳。様々なことに対応する術を持っていない稚拙な考えは夜の街では危なっかしく、本能的に逃走した。オーナーから毎日のように電話が鳴ったが全て無視した。

おっくん

おっくん

3児の父。一度きりの人生。焦らず腐らず諦めず。
19年の教員人生に終止符をうち起業。”自然の息吹を身に纏う”子どもたちのアパレルブランドT-ockbayを立ち上げる。

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